前編では、佐治真規子さんからクリニックの案内がありました。具体的には、どんな時に受診すべきかや、どのような検査があるか、そしてクリニックの雰囲気について、認知症と診断されたら?など受診前に知りたいことを質問してくださいました。
後編では木之下院長の目指す医療や社会的な役割について、また認知症と診断されてからのご本人や家族の葛藤をお話しされています。「その葛藤の中に何か起きているのか」を読むことができます。最後には「木之下さんが認知症になったらどんなふうに暮らしていきたいですか?」という質問も飛び出します。
サラッと過ぎた会話の中に、たくさんのヒントが隠されています。ぜひ文字となった言葉をゆっくり読んでみてください。
(会話の途中に関連したのリンク(「認知症、っていうけど」【ブログ】)を貼っています。さらに深く知りたい方は続けてお読みください)
認知症カフェ「物忘れ外来って、どんなところ?」後編
東京三鷹市のメモリークリニック院長の 木之下徹さんのお話です。65歳以上の認知症の人の数は 推計で今全国の約600万人。2年後にはさらに100万人増えて 高齢者の5人に1人が認知症になると言われています認知症は人ごとではありません。木之下徹さんが院長を務めるクリニックにラジオ深夜便の佐治真規子ディレクターが 訪ねてお話を伺いました
【出演者】
木之下:木之下徹さん(のぞみメモリークリニック院長)
ご家族との関わりとか、アドバイスなさっているんですよね。
こんなことがあったんです。
診断された後のフォローアップ
ーーー今、木之下さんが認知症の人に対して やりたいと思っている医療ってのはどういうものなんですか。
木之下:とりあえず最低限の医療的な情報提供。それはMRIで見たらこうですよ。MRIでこうだと将来きっとこういうことが予見できますね。あとは薬ね、認知症の薬。これはちゃんと定期的に効き具合をチェックしないと、実感だけだとその効能って分かりづらいから。
効いたか効いていないか、きちんと定期的に検査をしてその結果を本人にフィードバックしますよ。その上で薬の分量を決めましょうよとか、認知症だと思ってきたけどこれは脳腫瘍でしたよ。っていうような別の問題。認知症絡みで引き当てた別の問題については適切な医療機関を速やかに紹介して治るものだったら治してもらいたいなと思うしダメだったらダメなりに医療サービスに結びつけて意味のある最後の生涯を送ってもらいたいなと、そういう思いですよね。もう一個は認知症そのものが置かれている社会的な立場。例えば取り巻く考え方とか例えば認知症と診断された人の心の変化というのも、大きな変化があるわけじゃないですか。そういうことを伝えた後のフォローアップは今まで医学の中ではあまり記述されていないんだけど、やっとかなきゃ、いけない大きな問題だと思うんですよ。
例えば診断された後の心のケアって、あるのかないのか。そういう問題まで踏み込んでいかないといけないなと思っている段階ですね。
ちゃんと考えるというか、感じること
ーーー木之下さんは、すごい患者さんと病気のことも、もちろんですけれども、ご家族との関わり方とか。そういうことについてもアドバイスなさったりされていますか。
木之下:僕なりにはしてるんですよ。
忘れてもないのに毎日忘れるって言われるとたまんないぞ、っていうことを言うだけで結構これだけで泣く人がいたりね。なんていうことを自分がしてきたんだ、ってなる人もいるし例えば、子どもが連れてきてね、もっと具体的にしゃべると別に僕は診察室や検査しないので質問もしないんですよ。医療的な質問はしない。そんなことよりももっと全般的なコミュニケーションの方を大事にしている。本人とね。
にもかかわらず、例えば娘と母親というケース結構多いパターンではね、いきなり僕の娘の前で、診察してるんだけど。ちょっと日付の話になった時に「お母さん今日何月何日?」って試すかのように頑張る人がいるわけ。意外にいるんだよ。で、聞くの。なんで試してるのって。これやるといい訓練かなと思ってやってますって言うわけ。そういうことないから関係ないよっていう話をしながら母親に言ったんだね一言言ったの。娘さんのこと怖いんでしょって聞いたの。そしたら震えるようにして泣き始めちゃったのよ怖いんだって。っていう姿を娘が見て、絶句よ。
そういう風に思われてたの。って。光景浮かぶかな?
私って一生懸命ここまでやってきたのにそういう風に思ってたの、お母さん。ってわけ。
この前、娘がね母親がいろんなことができなくなっているってすごく言ってくると。
カレンダーも。今日なんかここ来るの分かってんのにカレンダーにもちゃんと書いたのに
いつまで経っても動こうとしなくてって言って、無理から連れてきたんですって言って2人座ってるわけ。ともかく記憶がしづらいんだからメモした方がいいですよねって娘は僕に尋ねてくるわけ。えっ?て話を聞くと今、家でこんな風になってあんな風になってやってるんです。最近母親がやらないからって、先生。ちゃんとメモさせた方がいいですよねって話になったわけ。それでその話を母親にちゃんと許可も同意も得ずに良かれと思って正しいと思ってやってるでしょ。カレンダーに書きやすいように配慮してカレンダーも作ったでしょって。そうなんですって。その良かれと思う気持ちがどんどんどんどん母親を追い詰めていってるよねって。だから書いてあるのにやらないとか、いかないとかいう話につながってないの?って言ってる最中から娘が今度、泣き始めちゃって。自分が本当に心から母親のためにいいと思ってやってきたことが、裏目に出てるという、母親のレスポンスから見てね裏目に出てるということに気づかされて泣き始めたんです。っていう姿を母親が見て泣き始めたのよ。なんでかっていうと、娘が私のことをそこまで思っててやってることに気づかされたことと、そのせいで、私ができなかったせいで、やらなかったせいで、ここまで娘を泣かせてるという自分に、母親が気づかされたわけ。それで助けてくださいと俺に言うんだよ。手、差し出して。どうしたのって聞いたの。私は私のことをここまで思ってくれる娘に対して私が原因で泣かせてしまった。私はそもそも娘にそんな思いをさせてまで生きてる意味はないって言ったの。これ医療の話じゃないんだけど。医学的に言やあ、心理的な関係性をこうもつれをこう、どうやってほぐそうかっていう話もなっていくんだけれども。
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結局人間を突き動かすのって、根っこにあるそういう思いとか感情とかがあった上で自分で取り決めをすれば、実際に実行できるような手続きになっているんだけど、手続きばかりを先んじた。
そうすると当然、母親思いの娘としてはそれを始めた。けどその良かれと思ったことが全部裏目に出てた。端から話をできる関係であったり考え方を共有する関係であれば、この問題は生じてないじゃない。あとは世間的に記憶がしづらいからと言って必ずメモしなければならないという変な法則みたいなことが書いてあるからさ、教科書を見りゃ。みんなそういうしさ。記憶しづらいからメモすればいいんだって本人がメモした方がいいとか。本人がやる気があるんだったら本人にやらせた方がいいとか。世間の味方に引きずられちゃって、自分の本当の気持ちが歪んだ形で母親に伝わってるし、母親だって同じように娘のこと考えてるにもかかわらず矛盾を起こしてるっていうのは誰のせい?ってやっぱ思うわけ。
そういう文化、、そういう何気ない一言とかがその人に影響してるから。僕が言ったのは、別にいいじゃんメモなんかしなくたって。て言ったのよ。そうですよねって言ってたよ娘も。母親は、娘にそれだけの悲しみを与えたっていう自分が許せないということで助けてくださいからは、変わらなかったけどね。またおいでって言った。
そういう世知辛い関係性にまで及ぶような事態を僕らは生みがち。
それはしばしば認知症の文化もそうだし、けど認知症があって初めて考える問題でもなくてね。そもそも人の関係の関係性の中で考えていくべき問題。あんまり医学として取り上げる問題じゃないんだけれども、けどやっぱりちゃんと考えるというか感じることを大切にしないと誤るよね道をね。
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ーーー自分ももしかしたら、そういうことするんじゃないかなって、他人事じゃないなって。
木之下:僕的に考える考え方は、まあしてるんだよ。思っちゃって。いいじゃん。それでって、そっから考えていく。
あたかもあるかのような、あたかも良いかのような話
ーーー夫婦の場合でもありますか?
木之下:夫婦に限らずさ、2人いれば必ずこの問題は生じる。2人ではいろいろと濃淡はあるものの、思いの伝わらなさ加減とか、伝わりさ加減とか、うまくいく、いかない、すべて
同じ。と僕は思うので、気を衒った話は一切いらないと思うんだけど。僕らが染まりがちなのは、あたかもあるかのような、あたかも良いかのような話を他人からパクってきて人に説明してることって多いでしょ。それを実際にその人に対してやっちゃうことも多いじゃない。
そこに落とし穴があるよねって思うし、それをすごく明らかにさせてくれるのは認知症で、
もの忘れっていう用語すら深刻な人間関係のダメージを与えるし、逆に小さいそぶりですら、気持ちが備わっていればさ、どんな小さいそぶりでも誤解されないだろうねと思うけど。誤解されたら小さいそぶりですら、みぞを広げる理由になるし、意外に、このことをお互いに言語化せずにみんな付き合ってるケースの方が多いよね。
ーーーどういうことですか?
木之下:何気ない一言で、どんだけ人の考え方とか方向性とか決心が見えてくるじゃん。
二人、人間がいると、この間で、必ず相互作用があって、言葉や態度や顔色や体温を通じてコミュニケーションをとっているじゃん。これをちょっとでも良くしようとみんなが頑張っているんだけど、簡単なことでまた動き沈みしてコントロールができない状態になっているのがほとんどだよね。それはなぜかというと、一つには純粋に、ここの利害関係とかさ、こいつと付き合っていると金になるとかこいつと付き合っていると何か得するみたいな、感触以上に大事なものを失っていると、大体関係性というものがうまくいかないよね。
認知症の場合それが如実に出てくるよね。
ーーー今回木之下さんにお話を伺っていて、他の病気も、何でもそうだと思うんですけれども特に認知症をカテゴライズしない。こういう風だって、決めつけて「見ない」っていう。それは自分が認知症になった時もそうだし。そういうことが大事じゃないかなっていう風に。そういう感じがするんです。
認知症らしさに苦しむ
木之下:世間にあるものは、壁のように岩壁のようにうがちがたく、強固になっているっていうことがあって、そのせいで苦しむことが相当多いんですよ。世間ではやっぱり認知症の人そのものに焦点を当てるよりも認知症らしさを切り取りたいし、そこの部分を宣伝に使ったり企業としてご支援できますよ、という無私の心でやってるのかもしれないけど、結果出てくるのは、目の前にある、うがちがたい岩壁を、さらに強固にしているようなプロセスにしか見えてこない時があってね。結果、どうなのか。というと僕が診察室であなた認知症ですよって言うと、泣き崩れる人もいるわけ。もう耐えがたくてね。っていう文化をやっぱり作ってるよね。これを壊すのは何かっていうと、僕らがその頑なに信じている思い込みを一回は崩す。人が言った話も一回は崩して考える。
一方で、そればっかりやってると医学ってのは逆なんですよね。成立しないので。やっぱりメリットもあるから、やっぱり人の体の秘密とかね、脳みその画像の秘密とか見て。で、それがもし本人に役立つような情報であれば、やっぱり吸い上げて、それはもう画一化された医療的情報、標準化された医療的情報だろうけど、それが本人に役立つんだったら提供すると。その部分はもうあんまり変わりようがないと思うんだけど、そうでない先ほどの涙ながらにね、ちゃんと思いながらも、母親のもっと深い思いに応えてなかった自分に気付くという娘を見て母親がさらに自分の生きてる意味がないんじゃんと気付く。
これはやっぱり世間でも思ってる思い込みや文化がその娘の行動を駆り立て、しかも母親のためにという理由で駆り立て、結果、その裏目に出ちゃったっていう結末でしかないけど。この話は認知に限らない。一般的に、比較的蔑ろにされやすい文化の問題や、考え方の問題とか、考える態度の問題とか。を、今一度ちょっと掘り下げて考えていかないと、落ち落ち自分自身が認知症になれないよって思うわけですよ。
トータルとして健やかならば
ーーーもし木之下さんが認知症になったら、どんなふうに暮らしたいなって思われますか。
木之下:いやー。今よりは、いい暮らしはしたいけどな。できないかなどうかな?いやー頑張りたいけどね。
一般論として言えばね、本質的な予防ってあると実は僕は思ってきて、ただ単に良くすることを予防とかね、なっちゃってるけれども、記憶障害があっても、もうちょっと本質的な問題があったと。その本質的な問題がクリアできれば記憶障害があっても構わないじゃない。自分の生き様が、満足できていれば。例えば記憶のしづらさが問題とならないような生き方だってあるはずなんだよね。っていう生き方を開発したり考えたり実践できたりすることを意識的にできるようになれば、それは予防だよね。別に記憶障害があったっても、前向きに生きていけるわけだから。例えばね。
幻覚はあるよね。それは、理由として、なんで幻覚を見るの?幻を見るの?というと意識レベルがふっと下がってるから。それは薬によっては治ることもあるけれども。
そういうふうな状態になったとしてもねって。それがもし自覚ができるんであったら、またその向き合う姿勢も変化するし。自覚できなければ、その場合どうしたらいいんだろうな?って分からないな。自覚できる自分であればいろいろ考える余地があるなと思う。
自分のなる認知症のパターンに合わせてそのぐらいを考える力があれば。複雑な問題があってね。けどトータルとして健やかだったらいいじゃんって思うよ。認知症になってもね。
たくさん気づかせてくれるよ認知症って。
ーーーなんで認知症ってこんなにいろんなことを気づかされるんでしょうね。
木之下:やっぱ認知機能が変化すると今まで持ってた鎧がボロボロこぼれるんだろうな。落ちていっちゃって、はだけていく姿を見て、それを見て、それは自分の鏡として考えた時に気づけることなんだろうって思う。
ーーーそれは自分ごとなわけじゃないですか。年を取ったら可能性としては。
木之下:若くてもいるけどね、認知症はね。
面白い言葉があって取り繕い反応ってあるんだよね。認知症の教科書を見てくるとめくっていると取り繕い反応ってあるの。で、その言葉自体が意味がないっていうことになかなか気づけないんだよ。
取り繕えたら取り繕ったってわかんないじゃん。バレてるから、それって取り繕ってないよね。っていうまずロジカルな矛盾があるよねっていうこと。
取り繕い反応って、やっぱり人を揶揄したりするためにある反応ではなくてね。本来ならその人の重要な自分を保つための反応。それがうまく鎧が解けちゃうからバレちゃうでしょ。
認知機能の変化によってバレちゃうっていうところに、その人の尊厳そのものもね、傷つくわけ。嘘をついて、それがバレないって大事なことだよね。だってバレると相手に対してしまったって思うかもしれないけど、それ以上に自分が傷つくじゃん。だってそれなりに自分を成立させるために、ちゃんと嘘ついてるんだから。
【ブログ】[認知症と向き合う](8)「取り繕い」の理由 考えよう
だから一個一個そういうことって、そのまま教科書には書いてあるけど、そのまま一生懸命メモして覚える対象じゃなくて、考える対象だよね。いちいち。
わからないでしょ認知を外から見て。喋ってても、しばらく簡単な話だったら、逆にもうわからない人の方が圧倒的大多数。
だけど周りはわかったかのように接してくるからさ、認知症だとこれぐらい勝手にできないだろうと思って、やたらめったら過剰なサービスと見落とされて過小なサービスのアンバランスの中に放り込まれるから。そういうアンバランスさっていうのはさ、やっぱり、もうちょっとその人の実態や経験が共有化されてなくて、その人には知らされてないよねって。
わからなくても人間付き合いで乗り越えられるけどね。思いとかさ感情とか・・。その人に向けた無償の・・・なんだろうな何か、あるじゃん。
そういうものに注目した方が、いろんな困難を避けてくれるんじゃないかな。
たとえ記憶がなくてもさ、幸せだなと思えればいいじゃん。
そういう、健やかに生きていけたらいいよね。
ーーー木之下さん、今日はありがとうございました。
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